古事記・日本書紀・万葉集の伝承
〜古文書の原文と現代語訳〜
📘 目 次 Table of Contents
(1) 御祭神・御神徳
(2) 古文書の原文と現代語訳
(3) 九州最古の万葉歌碑
(4) その他の石碑・史跡
(5) 地名『子負ヶ原』の由来
(6) 深江放生会囃子
(7) メディア紹介など
(8) 昔の写真
1800周年 & 1300周年
2000年:鎮懐石伝説(200年)から1800周年
2012年:古事記(712)に記されて1300周年
2020年:日本書紀(720)に記され1300周年
2029年:万葉集(729)に記されて1300周年
2030年:山上憶良『令和』の宴1300周年
鎮懐石八幡宮のトップページはこちら。
神社名
鎮懐石八幡宮(ちんかいせき はちまんぐう)
Chinkaiseki Hachimangu Shrine
鎮座地
福岡県糸島市二丈深江2143-1 アクセス
子負ヶ原(こぶがはら)
御祭神
• 神功皇后(子宝・安産の神様)
• 応神天皇(八幡神:武運、勝運、開運)
• 武内宿祢
由緒
<鎮懐石(ちんかいせき)を祀る神社>
福岡県糸島市にある鎮懐石八幡宮は、古事記・日本書紀・万葉集などに記された鎮懐石(ちんかいせき)をお祀りする神社です。
鎮懐石とは、神功皇后が安産を祈り身に付けられた石。
<鎮懐石の伝説>
約1800年前の仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后(息長足日女命)は応神天皇を懐妊しながらこの地を通って戦地に兵を出された時に、卵型の美しい二個の石を肌身に抱き、出産の延期を祈って御腹と御心を鎮懐(しずめ)られた。
願いは叶って帰国後、宇美の里で応神帝をご安産なされた。
帰路、神功皇后が経尺の璧石を、子負ヶ原の丘上にお手ずから拝納されてより、世の人は鎮懐石と称してその奇魂(くしみたま, 霊石)を崇拝するようになった。
鎮懐石は皇子産石(みこうみいし, みこうぶいし)とも呼ばれ、長い歴史の中で子宝・安産の信仰が受け継がれてきた。
御利益
・神功皇后の子授け安産の御神徳が古くから信仰されてきました。
- 本殿に鎮懐石をお祀りしています。
- 展望台の社殿に陰陽石をお祀り。
・ご出産なされた皇子、応神天皇(八幡神)は、武運、勝負運、開運の神様。
・猿田彦大神は、導き、道開きの神様。
・金刀比羅宮は、海上/航海安全、交通/旅行の安全、導きの神様。
・塞の神は、村の守護神。
Chinkaiseki Hachimangu is a historic shrine which is enshrined the sacred stones named "Chinkaiseki" since A.D. 200 (1800 years ago) in the Japanese Mythology in Kojiki (Records of Ancient Matters), Nihonshoki (Chronicles of Japan), and Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry).
The shrine has power to bless couple with the birth of baby through pregnancy and safe childbirth.
[Divine Favors]
・Birth of baby (childbirth) by pregnancy and safe delivery.
・Good luck, victory, career success, leading to a better future.
・Prosperous business, economic fortune, travel and traffic safety.
古文書に記された神社の歴史
鎮懐石八幡宮の由緒は、日本最古の書物『古事記』(和銅5年/712年)、日本最古の歴史書『日本書紀』(養老4年/720年)、日本最古の歌集である『万葉集』などの奈良時代の古文書に記されています。
仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后(息長足日女命)が戦に向けてこの地を通られた時、身籠もられていた皇子(応神天皇)の産み月に当たりました。戦の最中に生まれないよう、戦いが終わり帰ってきてから産まれてほしいと安全な出産を祈願され、二つの石を腰に挿し挟み鎮められた。
帰路この地を通られた時に、この石を丘の上にお納めになりました。
この石は皇子産石(みこうみいし)と呼ばれ崇敬されてきました。
●『古事記』中巻 仲哀天皇 段四《鎮懐石渡釣魚》(奈良時代712年編纂)
〜古事記は日本最古の書物であり歴史書〜
《原文》
故、其政未竟之間、其懐妊臨産。即為鎮御腹、取石以纏御裳之腰而、渡筑紫国、其御子者阿礼坐。
故、号其御子生地謂宇美也。亦所纏其御裳之石者、在筑紫国之伊斗村也。
《現代訳》
まだ戦が終わっていない時に、神功皇后の懐妊されていた子(応神天皇)が産まれそうになりました。そこで皇后は、腹を鎮めるために、石を腰につけました。そして九州の筑紫に渡ってから出産しました。
その皇子が生まれた土地の名を宇美(うみ)と言います。その腰に巻いた石は筑紫国の伊斗村(いとのむら)にあります。
●『日本書紀』巻第九 氣長足姫尊 神功皇后(奈良時代720年編纂)
〜日本書紀は日本最古の正史(最も正統と認められた歴史書)〜
《原文》
適當皇后之開胎、皇后則取石挿腰而祈之曰「事竟還日、産於茲土」其石今在于伊都縣道邊。
《現代訳》
そのとき、皇后は出産が始まりそうになりました。皇后はすぐに石を取って腰に挟んで、祈って言いました。 「事を終えて、帰った日にこの地で生まれてほしい」 その石は今、伊都縣(いとのあがた)の道のほとりにある。
●『万葉集』巻第五 山上憶良(奈良時代729~730年の歌)
〜万葉集は日本最古の和歌集〜
*全文は、一つ下の項目『九州最古の万葉歌碑』に掲載しています。以下は一部を抜粋。
《原文》
筑前國 怡土郡 深江村 子負原、海に臨める丘の上に二石あり。〜中略〜
公私の往来に馬より下りて跪拝(おろが)まずということなし。
《現代訳》
筑前国 怡土郡 深江村 子負原、海に臨む丘の上に二つの石がある。〜中略〜
街道を通る人は馬から降りて両膝をついて拝礼しない人はいない。
●『釈日本紀』逸文 巻十一 述義七「皇后取レ石挿レ腰」の項(鎌倉時代1264年〜1301年に編纂、日本書紀の注釈書)
〜筑紫風土記 曰く〜
《原文》
逸都縣子饗原有石兩顆 一者片長一尺二寸周一尺八寸 一者長一尺一寸周一尺八寸
色白而鞭圓如磨成 俗傳云 息長足比賣命欲伐新羅 閲軍之際懐妊漸動 時取兩石挿著裙腰
遂襲新羅 凱旋之日至芋湄野太子誕生
有此囙縁曰芋湄野(謂產爲芋湄者 風俗言詞耳)
俗間婦人忽然娠動裙腰挿石厭令延時 蓋由此乎
《現代訳》
逸都県(いとあがた)の子饗原(こふのはら)に二つの石が有る。一つは長さ一尺二寸、周り一尺八寸。一つは長さ一尺一寸、周り一尺八寸。
色は白く磨かれたような丸さである。俗に伝わっているのは、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅に軍を進めていた際は懐妊されており、皇子が生まれそうになられた。その時、二つの石をとって腰に挟んで身に付けられた。
新羅から凱旋された日、芋湄野(うみの)に到着して皇子が誕生した。この因縁で芋湄野と言う。
世間で妊婦の胎動が起これば、下着の腰に石をはさんで時期を延ばすのは、この由緒による。
〜筑前国風土記 曰く〜
《原文》
怡土郡兒饗野(在郡西)此野之西有白石二顆 (一顆長一尺二寸大一尺重卌一斤 一顆長一尺一寸大一尺重卌九斤)
曩者氣長足姫尊欲征新羅 至於此村御身有姙忽當誕生 登時取此二顆石挿於御腰
祈曰 朕欲定西堺來著此野 所姙皇子若此神者凱旋之後誕生其可 遂定西堺還來卽產也
所謂譽田天皇是也 時人号其石曰皇子產石 今訛謂兒饗石
《現代訳》
怡土郡の西に児饗野(こふの)という場所がある。二個の白い石がある。一つは、長さ一尺二寸、周り一尺、重さ四十一斤。もう一つは、長さ一尺一寸、周り一尺、重さ四十九斤である。
昔、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅に遠征しようとしてこの村においでになった。
神功皇后は妊娠されていたが、産まれそうになったので、この二個の石をとって腰に挟み、祈って仰られた。
『私は、西の国境を定めようとしてこの野に着いた。孕んだ皇子が神の子ならば、凱旋した後に誕生なされるとよいだろう』
ついに西の境界を平定し、還ってからお産みになった。いわゆる誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)がこれである。
当時の人は、その石を名づけて『皇子産の石』(みこふのいし)といった。今は訛って『兒(児)饗の石』(こふのいし)という。
●『糸島伝説集』〜白く光り輝く二つの石〜(昭和48年/1973年出版)
糸島市二丈深江の国道202号線沿いに、海に向かって石垣を高く築き上げた神社がある。これが鎮懐石で有名な子負原八幡宮である。祭神は、応神天皇、神功皇后、武内宿禰の三柱であるが、御神体として祀ってある鎮懐石については奇蹟的な話が伝えられている。
神功皇后が松浦の津から出航する計画で、途中、怡土の津(深江)に寄港された。
ある日、皇后が怡土の浜辺(御浜、現在の深江海岸)を歩いておられると、白い光を放つ二つの石が目に触れたのでお近づきになって手に取ってご覧になると、とても美しく珍しい石であった。
皇后はご懐妊の、しかも臨月の御身で大軍を率いて戦地に赴かれることを非常にご不安に思われて神にも祈っておられたので「これは神からのお授けの神石であろう」と、天を仰いで神恩に感謝された。陣屋に帰り、子負原(こぶがはら)の丘で御降神の儀を行い、この神石に向かって「願わくば、かの新羅を征してめでたく凱旋するまでは皇子の誕生なきよう御守護を垂れ給え」とご祈願されてその石を取り上げられた。
神の託宣通りに神事を行い出港されると、不思議にも海の魚が集まって来て船を背に乗せ、追い風を受けると一気に進み新羅の国に押し上げて国の中ほどまで達したという。
航海中や戦の途中で陣痛が始まろうとすると、その神石で腹を撫でられると不思議なことに痛みと気分が治まるので皇后はたいへんお喜びになり、絶えず懐中にこの二つの神石をお入れになっていた。
こうして新羅遠征も勝利の中に無事凱旋になると、めでたく胎中の皇子もご降誕になった。後の応神天皇である。皇后の安堵とお喜びは一方ではなかった。
その後、皇后はこの神石を祈願の地、子負ヶ原の丘上に納められ、永く祀られた。その後この神社の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されている。この頃からこの神石は皇子産石とも鎮懐石とも呼ばれるようになった。
そして貞享2年(1685)に社殿を新築して、この石をご神体としたという。
なお、社前に御船をつながれたという『船繋ぎ石』(ふなつなぎいし)(または艫綱石, ともつないし)が玉垣をめぐらし残されているのも珍しい。
また、この八幡宮前の海岸には唐図貝というよその海には見ることのできない貝が住んでいる。貝殻の紋様が唐図を現しているので唐図貝というのだが、皇后が新羅から土産物として持ち帰られたのをこの海に放たれたのが住みついたものと言われており、これも珍しい話である。
山上憶良が詠んだ万葉集の歌(天平元年/729年〜天平2年/730年)
〜万葉集は日本最古の和歌集〜
2029~2030年は、『万葉集』で山上憶良が鎮懐石八幡宮の歌(729~730年)を詠んでから1300周年。
奈良時代の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌が収められています。
聖武天皇の御代726年(神亀3年)山上憶良は筑前国主に任ぜられ、福岡に赴任しました。筑前箕島の住人 建部牛麻呂(たけべのうしまろ)から鎮懐石伝承を聞き、長歌および反歌に詠じて、その台詞に石の形状、所在地ならびにその縁起を述べています。
*山上憶良が鎮懐石を詠んだ年を「729~730年」と記載した理由
・山上憶良が福岡赴任中の神亀3年(726年)〜天平4年(732年)の6年間のどこかで詠まれているが、日付が記載されていない。
・万葉集は日付の古い順に編纂されており、鎮懐石八幡宮の直前の歌が「天平元年(729年) 11月8日」、直後の歌が「天平2年(730年)1月13日 令和の宴」となっているため、鎮懐石の歌は729年11月9日〜730年1月12日の間に詠まれたものであろうと推測。
九州最古の万葉歌碑(安政6年)
〜糸島市指定文化財〜
江戸時代の安政6年(1859年)、この万葉歌を記念して万葉歌碑が建てられました。碑面は、万葉集 巻第五に所載されている鎮懐石を詠じた山上憶良の歌詞題詞を刻んだものです。万葉歌碑は糸島市の有形指定文化財となっています。
書は、深江在住の豊前中津藩儒学者 日巡武澄(ひよし たけずみ)によるもので、 流麗な書体は美術的にも価値が高いものとされています。
〜この歌碑ならではの特徴〜
昭和や平成の時代、各地に万葉歌碑が建てられましたが、ほとんどが反歌(五七五七七)のみです。当神社の歌碑は序文・長歌まで掘られており、当時の人々が石を崇敬する様子を知ることができます。
萬葉集 第五 筑前守 山上臣憶良 詠ならびに序文
山上臣憶良 詠鎮懐石 歌一首併短歌
《読み下し文》
筑前國怡土郡深江村子負原 海に臨める丘の上に二石あり 大きなるは長さ一尺二寸六分 圍(めぐり=周囲)一尺八寸六分 重さ十八斤五両 小さきなるは長さ一尺一寸 圍(めぐり 周囲)一尺八寸 重さ十六斤十両 並(とも)に皆楕圓(楕円)にして状鶏の子(かたちとりのこ=卵型)の如し 其の美好(うるわ)しきこと論(あげつろ)ふに勝(と)ふべからず 所謂径尺の璧(たま)是なり
深江の駅家を去ること二十許里 近く路頭(みちのほとり)にあり 公私の往来に馬より下りて跪拝(跪いて拝む, おろが)まずということ莫し(無し)
古老相伝へて曰く 往者(いにしえ)息長足日女命(おきながたらしひめのみこと, 神功皇后) 新羅國を征討(ことむけ)ましし時 茲の両(二つ)の石を用ちて御袖の中にさし挿み箸けて以ちて鎮懐(しずめ)と為したまひき 所以(ゆえに)行人此石を敬拝すといへり 乃ち歌を作りて曰く
<長歌>
懸けまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ=神功皇后) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろずよ)に 言い継ぐがねと 海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負の原に み手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇魂 今の現に 尊きろかむ
<反歌>
阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母
天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ継げと この奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも
《現代訳》
筑前国怡土郡深江村(現在の福岡県糸島市二丈深江)子負原、海に臨む丘の上に二つの石がある。大きい石は、長さ一尺二寸六分、周囲一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さい石は、長さ一尺一寸、周囲一尺八寸、重さ十六斤十両。両方とも楕円形で卵のような形をしている。その美わしいことは言うに及ばず。まるで直径30cmの璧(古代中国で祭祀用や威信財として使われた玉器)である。
深江の駅家(うまや=古代駅伝制の役所)から二十許里(注釈1)の道のほとりにある。往来する人は公私にかかわらず馬から降りて跪き拝まない人はいない。
古老の伝えによると、遠い昔 息長足日女神の命(神功皇后)が新羅に遠征された時、二つの石を袖の中に挿し挟んで身に付け鎮懐(しずめ)られた。このため道行く人はこの石を敬い拝むと言う。この歌を作って詠う。
<長歌>
口に出して言うのも畏れ多い神功皇后が、新羅の国を平定される時、御心を鎮めるために手に取られて大切に祈りを込められた美しい玉のような二つの石を、世の人々に示されて万代に言い継ぐようにと、海の底 深江の海上にある子負原にご自身の手で置かれて、神として神々しい霊妙な神石は今現在も尊いことである。
<反歌>
天地が永久であるように共に永遠に語り継ぐように、この不思議な力を持つ霊石がここにお祀りされたのだろう。そして、この地(子負原)は神霊が宿り守られていくのだろう。
(注釈1)
深江の駅家(ふかえのうまや)
〜「二十許里」ではなく「二許里」〜
【飛鳥時代の連絡網、駅伝制】
・飛鳥時代(7世紀終わり〜8世紀初め)に、奈良の都と地方の国府をつなぐ幹線道路が作られた。
・人の移動や情報の伝達手段は馬。三十里(約12km)ごとに駅家が置かれ、馬を乗り継ぎながら伝達した。これを「駅伝」という。
【深江の駅家はどこ?】
・万葉集に「深江の駅家から二十許里(=約8km)の道のほとりに鎮懐石がある」と記されているが、深江の駅家がどこにあったのかわからなかった。
・鎮懐石八幡宮の場所はから逆算して8km先では遠すぎ、深江を通り越してしまう。
【深江の駅家の発見】
・平成8年(1996年)、深江駅南側の住宅開発の際に発掘調査が行われ、大型の堀立柱建物群跡と路面排水側溝をともなう幅約6mの直線的な古代道路が発見された。
・この遺跡から「二許里」(約800m) 先に鎮懐石八幡宮があることから、ここが『深江の駅家』だったことが判明した。
・これにより、万葉集の「二十許里」(約8km) は書き間違いで「二許里」(約800m) が正しい表記であることが定説となった。
・深江の駅家の遺跡は、出典となっている万葉集にちなんで『塚田南遺跡 万葉公園』と名付けられた。
【塚田南遺跡 万葉公園】
・『深江の駅家』の場所:塚田南遺跡 万葉公園(地図)
・塚田南遺跡万葉公園(深江の駅家跡)から鎮懐石八幡宮まで800m(Googleマップ)
・糸島市役所の詳細説明『塚田南遺跡 万葉公園』、『塚田南遺跡』
鎮懐石八幡宮の直後に令和
〜巻第五は福岡を中心にした歌集〜
万葉集から命名された新元号『令和』は、山上憶良が鎮懐石八幡宮の神石を詠んだ歌の次に書かれています。
山上憶良は、鎮懐石八幡宮の神石を詠んだ後、令和の宴に出席しています。
福岡県糸島市二丈深江 鎮懐石八幡宮
奈良時代729年(天平元年)〜730年(天平2年)
阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母
(天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ継げと この奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも)
福岡県太宰府市坂本 坂本八幡宮
奈良時代730年(天平2年)
初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
(初春令月にして 気淑く風和ぐ)
序文『令和』の作者は大伴旅人か山上憶良と言われています。
山上憶良であれば、鎮懐石八幡宮から令和の序文まで同一作者が書いたことになります。
山上憶良の福岡県における活動
・神亀3年(726年)、筑前守に任ぜられ福岡に赴任。
・神亀5年(728年)頃までに、大宰帥に着任した大伴旅人と筑紫歌壇を形成。
・天平元年(729年)11月9日~天平2年(730年)1月12日頃に、糸島の『鎮懐石』の歌を詠んだ。
・天平2年(730年)1月13日、太宰府の大伴旅人の邸宅における観梅の宴(令和)に出席。
・天平4年(732年)、筑前守の任期を終えて帰京。
鎮懐石碑(神社縁起)
江戸時代1814年(文化11年)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。
文は亀井南冥(かめいなんめい)の高弟、苓州江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく)による。書は福岡藩の藩医であった米山上村樗(べいざん かみむらちょ)による。
碑文
筑之西偏(ちくのせいへん)の郡を怡土(いと)と曰う
怡土之邑驛(むらえきや)を深江と曰う 驛之西皋(えきやのせいこう)を萩之原(はぎのはる)と曰う
實は子負原(こぶがはら)なり 寶石(宝石 ほうせき)有り 名を鎮懐と曰う 世(よよ)神と而(して)之を祭ると云えり 諸(もろもろ)の國史を考うるに 神后足姫(しんこうたらしひめ=神功皇后) 氏之韓を征する也 時に應神帝を姙(妊 はらま)りて月を彌(ひさ)しくす 迺(すなわち)祝いて曰く 振旅(しんりょ)凱旋して後 分免(分娩)を願うと 乃(すなわ)ち 兩石(両石, 二つの石)を采(採)りて諸(これ)を腰帯に挿(さしはさ)み 遂に其言の如く歸(帰 かえ)りて諸(これ)を斯の原に措(置)く 往還(おうかん, 往来/行き来)する者下馬跪拝(げばきはい, 馬を降りてひざまずいて礼拝する)せざる莫(な)し 萬葉之歌に之を詠い 奇御靈(くしみたま)と曰う 奇御靈の讀みは玖志美多末(くしみたま)と為す
今を距(へだ)つる 百五六十年までは其石具(とも)に在り 後所在を失す 天和癸亥(みずのと三年)に至り驛民(えきみん)其一(そのいつ)を拾得す 則ち鳩有り 其家を祥(さいわい)す 是に於いて邑民(ゆうみん 村人)協議し小祠を建てて藏す 誓って人に示すを肯ぜず
今萬葉の紀する所を閲するに 其の大きさ尺有餘寸 その重さ十有餘斤 尋常の宮媛(きゅうえん)之得(これをえ)て 挟持(はさみもつ)所には非ざる也 顧るに神后之哲威(てつい)は殊域(しゅいき)を拖服(たふく)し 其躯幹臂力(くかんびりょく)亦夐(またはるか)に衆に超ゆる者有しか 娀(しゅう)卵を呑み姜嫄武(きょうげんぶ)を履(ふ)むこと古より之を傳う有り 其奇(そのき)又(また)甚し 何ぞ獨(ひと)り斯石を疑わん哉 邑之父老(むらのふろう) 神蹤(しんせき)之即(のただちに)堙鬱(いんうつ)するを恐れ 余に謁(こ)い之を記し 以って之を貞石(ていせき)に勒(ろく)す
文化甲戌(きのえいぬ 十一年)季夏
苓州 江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく) 華父撰(かふせん)
米山 上邨樗(べいざん かみむらちょ) 太壽書(たいじゅしょ)并(ならび)篆額(てんがく)
狂歌碑
あらそわぬ 風の柳のいとにこそ 堪忍袋 ぬふべかりけれ
詠者は「真顔」鹿都部真顔(しかつべのまがお)黄表紙本作者、恋川好町のことで蜀山人の門下生。通称北川嘉兵衛という江戸の人。
この狂歌は江戸時代の有名な狂歌作者 四方赤良(よものあから)本名 太田南畝(蜀山人)(1749~1823年)の狂歌才蔵集に入っていいる。
船繋ぎ石(ふなつなぎいし)
神功皇后が船で海を進む途中、深江の浜で船を繋いだ『船繋石』(ふなつなぎいし)が二ヶ所ある。
大昔は、神社の鳥居の近くまで海でした。
(1) 鳥居の下
(2) 参道の注連縄石柱の横
クロガネモチの木
展望所に登ると、横にクロガネモチの大木(高さ18.3m、幹回り2.5m)が見えます。
クロガネモチはその名前から「苦労の後にお金持ちになれる」「苦労せずにお金持ちになる」として、金運・出世をもたらす縁起の良い木とされています。このため、家の新築時や、子供の誕生祝いなどに縁起木として庭に植えられます。
『皇子産石』が地名『子負原』に
鎮懐石八幡宮は深江の『子負ヶ原』(こぶがはら)にあります。
往古、鎮懐石は『皇子産石』(みこうみいし, みこうぶいし)や『子産石』(こうみいし, こうぶいし)と呼ばれ、それが地名『子負ヶ原』(こぶがはら)になったようです。
皇子産石(みこうぶいし) ➡︎ 子産石(こうぶいし) ➡︎ 子負ヶ原(こぶがはら)
古く奈良時代における山上憶良の万葉歌には『子負原』と既にこの地名が記されています。つまり、奈良時代よりもっと古い飛鳥時代・古墳時代から鎮懐石の信仰が受け継がれてきたことになります。
鎮懐石八幡宮は、子負原八幡宮とも呼ばれていました。
奈良・平安時代の神輿と大競技会
糸島の宇美八幡宮の由緒に記されている。
「奈良(710-794年)、平安(794-1185年)の頃は宇美八幡宮は大社であって、二月初卯日には、七日間の大祭が行われ神輿三台を担いで、供奉行列とともに深江子負ヶ原海岸に至り、相撲・流鏑馬等の奉納があり、筑前(現在の福岡県の主要地域)・肥前(現在の佐賀県・長崎県)の大競技会が行われていたという。」
神輿のお御幸所(おみこしのルート)
宇美八幡宮→お受けの森(雉琴神社の跡地、神功皇后の胎盤を埋めた場所)→子負ヶ原八幡宮(鎮懐石八幡宮)→深江海岸
テレビなどの紹介事例は「HOME」(=トップページ)にも掲載しています。
テレビ番組(J:COMケーブルTV)『発見!筑紫の歴史 時空の旅人』
「糸島の神功皇后伝承」において平成29年(2017年)4月7日放送されました。
『日本書紀』(奈良時代720年)に、鎮懐石八幡宮について記されています。
「臨月になっていた皇后は石を腰に挟み、戦いが終わり戻ってきた日に、ここで生まれてほしいと祈った。その石は今、伊都縣の道のほとりにある。」
Featured as a prestigious shrine on the historic TV program on April 7, 2017.
糸島市の伊都国歴史博物館で、新元号『令和』にまつわる写真パネル展示。鎮懐石八幡宮の万葉歌碑も紹介されています。
このパネル展は、「万葉人がみた糸島」というテーマで、「万葉集」にうたわれ古代の万葉人も見たであろう糸島各地の風景やその場所に建立する「万葉歌碑」をパネルで紹介する内容です。
・伊都国歴史博物館 4F展望スペース(無料)
・令和元年4月27日~8月31日 月曜休館
・9時~17時
糸島新聞の一面
令和元年(2019年)5月9日
〜糸島も令和フィーバー ゆかりの神社、参拝客詰めかけ〜
新元号「令和」が1日に始まりお祝いムードに包まれる中、(中略)令和にゆかりのある鎮懐石八幡宮へ参拝客が多数訪れるなど、令和フィーバーがみられた。
〜百冊超す御朱印〜
「令和」の出典となった万葉集。九州最古の万葉歌碑が境内に立つ鎮懐石八幡宮では、令和初日の御朱印を求める人たちが列を作り、この日だけで百冊を越す御朱印記帳の申し込みがあった。
Article on the front page of Itoshima Shimbun on May 9, 2019.
産経新聞の一面
平成29年(2017年)7月13日
Article on the front page of Sankei Shimbun on July 13, 2017.
香椎宮(福岡市東区)では、安産祈願のご参拝者さまに「鎮懐石御守」という石の御守をお渡しになります。
説明文には「この石は鎮懐石と呼ばれ、糸島市の鎮懐石八幡宮にお祀りされています」と紹介されています。
Kashii-gu Shrine gives a stone named “Chinkaiseki” to prayer for safe childbirth.
深江放生会囃子(ふかえ ほうじょうえばやし)
〜糸島で唯一ここだけに残るお囃子〜
太鼓の音に合わせて三味線・笛・鐘が演奏するお囃子は、現在 糸島ではここだけになっています。
9月の最終土曜日11:00、鎮懐石八幡宮の例祭『放生会』が斎行され、『深江放生会囃子』が奉納されます。
放生会とは
万物の生命を慈しみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する祭祀。読み方は「ほうじょうえ」、福岡では「ほうじょうや」とも読みます。
城のような石垣(貞享2年, 1685年完成)
鎮懐石八幡宮には22メートルの高石垣があります。天和2年(江戸時代1682年)に唐津城主が空閑六郎俊法に命じ、貞享2年(1685年)に城壁のような石垣を築き、社殿を新築させた。(糸島伝説集 糸島新聞社)
江戸幕府の五代将軍・徳川綱吉の時代です。
Chinkaiseki Hachimangu Shrine has a 22 meter high stone wall. In the 2nd year of Tenwa (1682 in the Edo period), the lord of Karatsu Castle ordered Rokuro Toshipo Kukan to build a stone wall like a castle wall and build a new shrine building in 1685.
本殿遷座(1936年, 昭和11年)
昔の鎮懐石八幡宮本社は展望台にありました。しかし祭事を行う際に狭いことから、昭和10年(1935年)に工事着工し昭和11年(1936年) 南側山手に遷座しました。
写真を見ると、地元の方々が社殿を建築されている様子を見ることができます。
社殿の裏は棚田が広がっていました。現在は202号線バイパス道路が通っています。
また木がほとんど生えていませんが、工事後80年余の間に、鎮守の森が出来上がりました。
The old Chinkaiseki Hachimangu Shrine was at the observatory. However, due to the small size for the festival, it was relocated to the southern mountain side in 1936.
Looking at the photo, you can see how the local people are building the shrine.
Terraced rice fields spread behind the shrine. Currently, the Route 202 Bypass Road passes through.
In addition, almost no trees have grown, but in the more than 80 years since the construction, the shrine forest has been completed.
社殿の床材(幅90cmの松)
昔は境内には大きな松の林があり、85cm以上の松の木が床板として使われています。
数十年前までは境内に大きな松の木がたくさんあったが、松食い虫被害で枯れたり、昭和24(1949)年10月に伐採された。
Until a few decades ago, many big pine trees were in the precincts, the trees fell down in 1949 by damage due to pine weevils.
「竹」と「崖崩れ」に頭を悩ましながら対応を試行錯誤しています。
・繁殖力が旺盛な竹が、どんどん押し寄せてきている。
・雨が降るたびに崖の土が流され、社殿横の崖が崩れてきている。
このため、繁殖力の高い竹・ススキ・草の退治と崖崩れ対策の外仕事に多くの時間を費やしています。
<著作権>
画像の著作権は『鎮懐石八幡宮』に帰属。
当サイトの写真は、鎮懐石八幡宮の宮司がスマートフォンで撮影したものです。
<Copyright>
The copyright of the images belongs to "Chinkaiseki Hachimangu Shrine".
The photos on this website were taken with a smartphone by the priest of Chinkaiseki Hachimangu Shrine.